「南極料理人」 沖田修一監督 [君にMOVIEを!]
先にOUTRAGEにも書いたけれど。
ドラマの二番煎じは映画じゃなくて、ドラマでしかない。
今日、あの「連合赤軍」の若松孝二監督の最新作「キャタピラー CATERPILLAR」で
寺島しのぶが、ベルリン国際映画祭のコンペティション部門で
最優秀女優賞を受賞のニュース。
映画という名の悪魔のような。
限りなくリアルに近く。
テンションを強く維持しないと見れない映画は、苦しい。
そんな映画には、人間の根底を揺さぶる部分があって。
その根幹すら危ぶまれるようになってしまう。
若松孝二監督の映画は、そういう渦巻きとダークサイドを直視して
描かれている故、目を背けたくなるような部分が多い。
描き方は独特でも。
でもどこかであるかもしれない、もしくはどこかであった話だから、
説得力も強く生まれる。
キャタピラーの反響云々よりも、生半可な気持ちで見れるほど
低い敷居では無いと、感じるゆえに重苦しい。
「若松孝二監督の・・・・」と聞いただけで、「うわっ・・・・」って想ってしまう。
この世界で今ボクにそう感じさせる唯一の監督。
反日日本人だとか、左寄りだとか言うけれど。
その歴史観などは監督自身の話で。
個人的には、「それでも映像にする、映画にする」という人間としてのACTIONは、
批判の対象にはならないと私個人は考える。
論理的に考えるよりも、心に去来するものが一体なんなのかという、
そういう根本的な考え方がそれぞれでいいとも考えます。
それで「クソだ」とか、「すばらしい」だとかは、自分自身で感じ得ればいいこと。
そんな話をした上での、「南極料理人」(笑

ドラマよりも、とっても練っていて、映画より薄い。
この希薄感と間が非常にテンポが良くて。
節々でそのガチな演技に笑えたりします。
限りある資源を有効に!でもないし、南極という場所での過ごし方なんて
想像もつかないけど、マジメにはやってらんないだろうなと笑える部分であったり。
本来なら、「無駄遣い!」みたいな感じは無くて。
それはそれでいいけど、本当にそれでいいの?の繰り返し。
じんわり人間味溢れるドラマにはせず、なんだかその緩やかな曲線
そのままに、話は流れそして終わります。
ダラダラ見るには勿体無く。
気合を入れてみるほどでもない。
この曖昧さが非常に見るには、勇気のいるところ。
この手の映画は、「で、結局何が言いたいの?」となって、
時間を無駄に浪費した脱力感に蝕まれる可能性が極めて高いわけですが。
今回は、そのゆるやかな時間が非常に心地よかったわけで。
夕方、何もテレビに気持ちが向かないときに見ると得した気分になれます。
音楽が、劇中の音楽が非常に絶妙だなと、エンドロールを待ってたら、
奥田民生の声。
そして音楽は、阿部義晴。
そういうことか。って感じ(笑
ドラマの二番煎じは映画じゃなくて、ドラマでしかない。
今日、あの「連合赤軍」の若松孝二監督の最新作「キャタピラー CATERPILLAR」で
寺島しのぶが、ベルリン国際映画祭のコンペティション部門で
最優秀女優賞を受賞のニュース。
映画という名の悪魔のような。
限りなくリアルに近く。
テンションを強く維持しないと見れない映画は、苦しい。
そんな映画には、人間の根底を揺さぶる部分があって。
その根幹すら危ぶまれるようになってしまう。
若松孝二監督の映画は、そういう渦巻きとダークサイドを直視して
描かれている故、目を背けたくなるような部分が多い。
描き方は独特でも。
でもどこかであるかもしれない、もしくはどこかであった話だから、
説得力も強く生まれる。
キャタピラーの反響云々よりも、生半可な気持ちで見れるほど
低い敷居では無いと、感じるゆえに重苦しい。
「若松孝二監督の・・・・」と聞いただけで、「うわっ・・・・」って想ってしまう。
この世界で今ボクにそう感じさせる唯一の監督。
反日日本人だとか、左寄りだとか言うけれど。
その歴史観などは監督自身の話で。
個人的には、「それでも映像にする、映画にする」という人間としてのACTIONは、
批判の対象にはならないと私個人は考える。
論理的に考えるよりも、心に去来するものが一体なんなのかという、
そういう根本的な考え方がそれぞれでいいとも考えます。
それで「クソだ」とか、「すばらしい」だとかは、自分自身で感じ得ればいいこと。
そんな話をした上での、「南極料理人」(笑

ドラマよりも、とっても練っていて、映画より薄い。
この希薄感と間が非常にテンポが良くて。
節々でそのガチな演技に笑えたりします。
限りある資源を有効に!でもないし、南極という場所での過ごし方なんて
想像もつかないけど、マジメにはやってらんないだろうなと笑える部分であったり。
本来なら、「無駄遣い!」みたいな感じは無くて。
それはそれでいいけど、本当にそれでいいの?の繰り返し。
じんわり人間味溢れるドラマにはせず、なんだかその緩やかな曲線
そのままに、話は流れそして終わります。
ダラダラ見るには勿体無く。
気合を入れてみるほどでもない。
この曖昧さが非常に見るには、勇気のいるところ。
この手の映画は、「で、結局何が言いたいの?」となって、
時間を無駄に浪費した脱力感に蝕まれる可能性が極めて高いわけですが。
今回は、そのゆるやかな時間が非常に心地よかったわけで。
夕方、何もテレビに気持ちが向かないときに見ると得した気分になれます。
音楽が、劇中の音楽が非常に絶妙だなと、エンドロールを待ってたら、
奥田民生の声。
そして音楽は、阿部義晴。
そういうことか。って感じ(笑
「THEE MOVIE」 ミッシェルガンエレファント [君にMOVIEを!]
つい30分前に映画館を出た。

色んな気持ちが交錯するけれど。
確かなことは、「やっぱり終わってしまったバンド」という事実。
R&Rは不変で、決して変わらないけれど。
あの瞬間あの時代、自分の時計とあの時、欲した感情を
すべてぶつけるだけの、受容と供給が、
あのバンドとボクの。ボクラの中に確かにあったんだと想う。
あれからの日々は、LAST HEAVENの映像や音は日常になり。
アルコールの発泡と共に。
また、朝の起きぬけのBGMに。そして手のひらの中に。
止まってしまったバンドの音は、その歩みを進めることはない。
ただ、腰を据えて。
飛び込む映像の中の、些細な気付きが。
妙に美しい光景に見えたことは、偽りの無い事実でした。
カルチャー終盤、緊張感のあるクハラカズユキの眼光。
ブギーの重奏。
チバユウスケのマイクについた骸骨マーク。
ジェニーの光景が、まるでステージが荒海越える船のように見えたこと。
アベフトシの右薬指の指輪。
アベフトシとウエノコウジのとても綺麗なドクターマーチン。
仙台での中止公演。
あの日と同じ、クハラカズユキがチャックテイラーだったこと。
FRFES、仙台語り継がれるあのバンドの伝説の一端の
映像は、何か忘れてた小さな欠片を貰えたような気持ちになる。
置き忘れたものは無かった。
あの頃のすべてがあそこにあって。
今を生きるボクには、あの頃に。
そして、あのバンドに抱く後悔が、微塵も無かった。
愛していた。
知っているんだと想う。
あんなに夢中になったことはなかったから。
あの頃に忘れ物なんて無いってこと。
「世界を終わらせない。」
でも、あの日確かに世界の終わりがあった。
いつまでもキラキラと輝く世界の終わりが。
THANK YOU thee michelle gun elephant
このバンドと同じ時代に、共に熱くなれていた
あの頃のROCKIN' BLUESを愛しく思います。
そして、これから体感する人がまた。
このバンドを、あのギタリストを脈々と語り継いで。
聞き続ければいい。
「懐かしいよね、ミッシェル。よく聞いてたよ」
なんて言う輩がいたら、
「アンタは昔かもしんないけど、アタシたちは今なんだよ」
って笑ってやればいい。
世界は終わっても、彼らのR&Rは永遠に終わらない。
ボクらもその音を、死んでしまうその瞬間まで愛し続ければいい。

色んな気持ちが交錯するけれど。
確かなことは、「やっぱり終わってしまったバンド」という事実。
R&Rは不変で、決して変わらないけれど。
あの瞬間あの時代、自分の時計とあの時、欲した感情を
すべてぶつけるだけの、受容と供給が、
あのバンドとボクの。ボクラの中に確かにあったんだと想う。
あれからの日々は、LAST HEAVENの映像や音は日常になり。
アルコールの発泡と共に。
また、朝の起きぬけのBGMに。そして手のひらの中に。
止まってしまったバンドの音は、その歩みを進めることはない。
ただ、腰を据えて。
飛び込む映像の中の、些細な気付きが。
妙に美しい光景に見えたことは、偽りの無い事実でした。
カルチャー終盤、緊張感のあるクハラカズユキの眼光。
ブギーの重奏。
チバユウスケのマイクについた骸骨マーク。
ジェニーの光景が、まるでステージが荒海越える船のように見えたこと。
アベフトシの右薬指の指輪。
アベフトシとウエノコウジのとても綺麗なドクターマーチン。
仙台での中止公演。
あの日と同じ、クハラカズユキがチャックテイラーだったこと。
FRFES、仙台語り継がれるあのバンドの伝説の一端の
映像は、何か忘れてた小さな欠片を貰えたような気持ちになる。
置き忘れたものは無かった。
あの頃のすべてがあそこにあって。
今を生きるボクには、あの頃に。
そして、あのバンドに抱く後悔が、微塵も無かった。
愛していた。
知っているんだと想う。
あんなに夢中になったことはなかったから。
あの頃に忘れ物なんて無いってこと。
「世界を終わらせない。」
でも、あの日確かに世界の終わりがあった。
いつまでもキラキラと輝く世界の終わりが。
THANK YOU thee michelle gun elephant
このバンドと同じ時代に、共に熱くなれていた
あの頃のROCKIN' BLUESを愛しく思います。
そして、これから体感する人がまた。
このバンドを、あのギタリストを脈々と語り継いで。
聞き続ければいい。
「懐かしいよね、ミッシェル。よく聞いてたよ」
なんて言う輩がいたら、
「アンタは昔かもしんないけど、アタシたちは今なんだよ」
って笑ってやればいい。
世界は終わっても、彼らのR&Rは永遠に終わらない。
ボクらもその音を、死んでしまうその瞬間まで愛し続ければいい。
「竜二」 川島透監督 [君にMOVIEを!]
見たかった映画を静かに見ました。

「竜ニ」
Lo-FiさんのBLOG読みましたが、まさにそんな感じ。
映像が流れて5分程で、金子正次に飲まれます。
声も風貌も井出達も。
すべてが次元の違う感じです。
役に溶けるとかそんなもんではなくて。
彼はもはやこの世に存在していない故、
生活の中で、メディアなどで彼をみかけることなど当然無く。
初めて見た俳優であり。
初めて見る俳優ゆえ、潜入観無しに見れるハッキリ言えば、
映画という媒体では、誤魔化しの利かない中で眩く光ります。
少しずつ垣間見せる視線だったり。
獣のような、または突風のような威勢であったり。
ヤクザとかチンピラとかではなく、1人の男としての話で見ると。
こんなに静かに確実に気持ちが沈む場面は、頻繁で。
ヤクザに疲れた男が吐露する先の話。
背中を丸め。
目線を兄貴分にも合わさず、でも背中を押して欲しくて話。
いざカタギになって、似合いもしないスタジャンを着ながら、
平穏な生活を送りながら、徐々に感じる居心地の悪さ。
自分で求めて、期待され。
その期待が背中を支えていたことよりも。
少しずつ膨らむ苛立ち。
渡せない金、救えない友。
堕ちる舎弟に昇る舎弟。
自分の姿が、変わり始め、妻もそれに感づき始める。
大切だったものよりも、自分が曲げられない生き方に気付き始めて。
最後は無言のシーン。
商店街を下る背中は丸まり。
昔の自分におさまっていく。
少しずつ変わる自分に苛立ちをせず、不安だったにも関わらず。
最初に感じた不安は手に入れた瞬間に消え。
元の自分と手にした自分の間で、生き方で揺れる。
ヤクザの世界が単純とは言わないが。
綺麗に物語と葛藤が納まっていくのは、美しいとしか言いようが無い。
目つきも顔つきも違う。
徐々に変化しながら、豹変せずじんわりとその姿が変わっていく。
分岐。
着せられた北公次の衣装とその空気の無さ。
煙草を捨てる仕草まで中途半端な感じ。
成り上がりきれない舎弟の感じが、
より一層、何か竜ニの中で弾ける要因かと思うと、奥深い。
結局、最初から何も得られず、何も失わず。
元の位置に帰る話。
でもそこに溢れる葛藤だとか、その仕草だとかは。
1人の人間として。
凄く胸に突き刺さる。
金子正次が、竜ニが、なぜ未だに愛されるか理由がわかった。
今も昔も、時代が幾ら変わっても、生きる人間の悩みや葛藤は、
そうは変わらないということ。
ショーケンの「ララバイ」がまた染みる。

「竜ニ」
Lo-FiさんのBLOG読みましたが、まさにそんな感じ。
映像が流れて5分程で、金子正次に飲まれます。
声も風貌も井出達も。
すべてが次元の違う感じです。
役に溶けるとかそんなもんではなくて。
彼はもはやこの世に存在していない故、
生活の中で、メディアなどで彼をみかけることなど当然無く。
初めて見た俳優であり。
初めて見る俳優ゆえ、潜入観無しに見れるハッキリ言えば、
映画という媒体では、誤魔化しの利かない中で眩く光ります。
少しずつ垣間見せる視線だったり。
獣のような、または突風のような威勢であったり。
ヤクザとかチンピラとかではなく、1人の男としての話で見ると。
こんなに静かに確実に気持ちが沈む場面は、頻繁で。
ヤクザに疲れた男が吐露する先の話。
背中を丸め。
目線を兄貴分にも合わさず、でも背中を押して欲しくて話。
いざカタギになって、似合いもしないスタジャンを着ながら、
平穏な生活を送りながら、徐々に感じる居心地の悪さ。
自分で求めて、期待され。
その期待が背中を支えていたことよりも。
少しずつ膨らむ苛立ち。
渡せない金、救えない友。
堕ちる舎弟に昇る舎弟。
自分の姿が、変わり始め、妻もそれに感づき始める。
大切だったものよりも、自分が曲げられない生き方に気付き始めて。
最後は無言のシーン。
商店街を下る背中は丸まり。
昔の自分におさまっていく。
少しずつ変わる自分に苛立ちをせず、不安だったにも関わらず。
最初に感じた不安は手に入れた瞬間に消え。
元の自分と手にした自分の間で、生き方で揺れる。
ヤクザの世界が単純とは言わないが。
綺麗に物語と葛藤が納まっていくのは、美しいとしか言いようが無い。
目つきも顔つきも違う。
徐々に変化しながら、豹変せずじんわりとその姿が変わっていく。
分岐。
着せられた北公次の衣装とその空気の無さ。
煙草を捨てる仕草まで中途半端な感じ。
成り上がりきれない舎弟の感じが、
より一層、何か竜ニの中で弾ける要因かと思うと、奥深い。
結局、最初から何も得られず、何も失わず。
元の位置に帰る話。
でもそこに溢れる葛藤だとか、その仕草だとかは。
1人の人間として。
凄く胸に突き刺さる。
金子正次が、竜ニが、なぜ未だに愛されるか理由がわかった。
今も昔も、時代が幾ら変わっても、生きる人間の悩みや葛藤は、
そうは変わらないということ。
ショーケンの「ララバイ」がまた染みる。
「狂い咲きサンダーロード」 石井聰亙 監督 [君にMOVIEを!]
先日、山田辰夫さんが亡くなった。
名脇役とか、渋みがあってだとかの印象だろうけど。
いくら歳を重ねても、魔墓呂死のジンを知ってる以上、
山田辰夫はいつまで経っても、
あの映画のギラギラした熱気を孕んでいて。
内にプスプスと燃焼する炭のような。
直火よりも、危険な空気が広がっていて。
呼吸に必要な酸素まで奪っていく危うさもあった。
時に、温和な「はるちゃん」での役柄を見かけても、
「またまたぁー」と苦笑いしてしまうぐらい、
カタギな感じが妙に似つかわしくなかった。

1980年公開の映画。
本当に鉄砲玉のような後先も考えないで、
その瞬間を爆発しながら突き進む男ジンの、
これ以上無い役柄を山田辰夫がやっていて。
少し足りない感じに喋るのも。
決して、死線をくぐった感じでは無い最初のチンピラの感じから、
「ぶっ殺してやる」と終盤に静かに放つ復讐の決起の瞬間まで。
その空気が変わる感じが十分に感じれる。
行き場とやり場の無い発散と、バイクのスピードの中でしか
実感の涌かない生き方の中で。
チームへの苛立ち。
仲間の裏切りから、新しい組織に組されても、
結局自分にはむかないと、あっさり唾を吐くシーンなど、
「そうだろーそうだろー」と相槌すら打ちたくなるもんで。
そこからのエスカレートする加速は、石井聰亙監督の映画では
当たり前のことなので、この方向は別になんてことはない。
話が異次元にカッ飛ぶ感じと辻褄を合わない、合わせないこの監督の
強引さと、山田辰夫の強引さがとても美しい。
決して丁寧とは言えない話の流れだけれど。
その強引な中でも、ジンだけは、変化しながらその距離を伸ばしていく。
暴れ放題のジンが最後。
泉谷しげる「翼無き野郎ども」をバックに、もがれた手と足で。
噴火口まで爆走するあのラスト。
バイクに跨ってみせたあの笑顔。
気付けば、仲間と馬鹿やってるときでもあんな笑顔のシーンは無かった。
常に眉間にしわを寄せて、荒れ狂う姿の中で。
やっぱりコレと思えるものに抱かれたジンの笑顔は、安息の地を見つけたかのようだった。
喧嘩でも暴力でもなく。
有り余る力の、はけ口を一点に。
そこに注ぎ込みながら、時間の経過を持っても変わらないその本質の中で。
枠組みや社会からあぶれた男に出来ることは、過去の落とし前と自分の意地。
自分の意地を通す方法の、手ほどきまでは無いが。
結局そこでしか生きれないという曖昧ながらの運命。
山田辰夫のギラギラに比べたら。
今の自分は、なんたるぬる湯か!と思うだろうけど。
今更ギラギラなんてと思うボクは歳をとった。
初めて、この映画を時からでさえも。
ただ、ジンはきっと生きていて。
その姿を見たかった。
ジンはどうあって、時間を過ごしたのか?って。
山田辰夫亡き今。
それもまた、想像の域を脱さず。
山田辰夫が逝ってしまっただけじゃない。
魔墓呂死のジンも逝ってしまった。
冥福を祈りつつ。
フィルムの中に焼きついた1人の男の姿が、永遠に残る。
最近はDVD化もされ、レンタル屋でも見つけることが出来る。
でも、そこは薄暗い映像の中で蠢く姿に。
気持ちを細くしながら、自分の気持ちを削ぐのなら、
あえて、VHSで見る趣をオススメします。
名脇役とか、渋みがあってだとかの印象だろうけど。
いくら歳を重ねても、魔墓呂死のジンを知ってる以上、
山田辰夫はいつまで経っても、
あの映画のギラギラした熱気を孕んでいて。
内にプスプスと燃焼する炭のような。
直火よりも、危険な空気が広がっていて。
呼吸に必要な酸素まで奪っていく危うさもあった。
時に、温和な「はるちゃん」での役柄を見かけても、
「またまたぁー」と苦笑いしてしまうぐらい、
カタギな感じが妙に似つかわしくなかった。

1980年公開の映画。
本当に鉄砲玉のような後先も考えないで、
その瞬間を爆発しながら突き進む男ジンの、
これ以上無い役柄を山田辰夫がやっていて。
少し足りない感じに喋るのも。
決して、死線をくぐった感じでは無い最初のチンピラの感じから、
「ぶっ殺してやる」と終盤に静かに放つ復讐の決起の瞬間まで。
その空気が変わる感じが十分に感じれる。
行き場とやり場の無い発散と、バイクのスピードの中でしか
実感の涌かない生き方の中で。
チームへの苛立ち。
仲間の裏切りから、新しい組織に組されても、
結局自分にはむかないと、あっさり唾を吐くシーンなど、
「そうだろーそうだろー」と相槌すら打ちたくなるもんで。
そこからのエスカレートする加速は、石井聰亙監督の映画では
当たり前のことなので、この方向は別になんてことはない。
話が異次元にカッ飛ぶ感じと辻褄を合わない、合わせないこの監督の
強引さと、山田辰夫の強引さがとても美しい。
決して丁寧とは言えない話の流れだけれど。
その強引な中でも、ジンだけは、変化しながらその距離を伸ばしていく。
暴れ放題のジンが最後。
泉谷しげる「翼無き野郎ども」をバックに、もがれた手と足で。
噴火口まで爆走するあのラスト。
バイクに跨ってみせたあの笑顔。
気付けば、仲間と馬鹿やってるときでもあんな笑顔のシーンは無かった。
常に眉間にしわを寄せて、荒れ狂う姿の中で。
やっぱりコレと思えるものに抱かれたジンの笑顔は、安息の地を見つけたかのようだった。
喧嘩でも暴力でもなく。
有り余る力の、はけ口を一点に。
そこに注ぎ込みながら、時間の経過を持っても変わらないその本質の中で。
枠組みや社会からあぶれた男に出来ることは、過去の落とし前と自分の意地。
自分の意地を通す方法の、手ほどきまでは無いが。
結局そこでしか生きれないという曖昧ながらの運命。
山田辰夫のギラギラに比べたら。
今の自分は、なんたるぬる湯か!と思うだろうけど。
今更ギラギラなんてと思うボクは歳をとった。
初めて、この映画を時からでさえも。
ただ、ジンはきっと生きていて。
その姿を見たかった。
ジンはどうあって、時間を過ごしたのか?って。
山田辰夫亡き今。
それもまた、想像の域を脱さず。
山田辰夫が逝ってしまっただけじゃない。
魔墓呂死のジンも逝ってしまった。
冥福を祈りつつ。
フィルムの中に焼きついた1人の男の姿が、永遠に残る。
最近はDVD化もされ、レンタル屋でも見つけることが出来る。
でも、そこは薄暗い映像の中で蠢く姿に。
気持ちを細くしながら、自分の気持ちを削ぐのなら、
あえて、VHSで見る趣をオススメします。
『僕らのミライへ逆回転』 ミシェル・ゴンドリー監督 ほか [君にMOVIEを!]
という訳で。
あらすじはコチラ。
知った頃には終わりそうで、予定がつかず。
今か!今かと待ちわびて。
見ました。
「僕らのミライへ逆回転」
結果から言うと、面白い。
娯楽です。滅茶苦茶 THE USA!な感じの。
ただ、色んなとこに色んな伏線を引いておいて。
最後は綺麗に繋がる感じと。
やっぱりジャックブラックが出てくると、素直に面白い感じは、変わらずにステキです。
人気ねぇーだろうと思ってたら、我が町のTSUTAYAでは猛烈な量がありました。
リメイクと言っても、ボクあんま映画しっかり見ないので、
知らない映画も。
と言っても、ロボコップやらの無茶苦茶感を感じれば、それがどのシーンだとかは
さほど重要じゃなく。
いかにその映画をリメイクでもなくパロディでもなく。
本当に小学生の学芸会レベルで、やってる訳で。
ボクにもこんな青春と友達が欲しかったと笑える感じです。
確かにあんなビデオがあったら、レンタルしたい気持ちになります。
バカだもんなぁ。
ただ、想像以上にラストは綺麗で。
タイトルや内容に反して、非常に丁寧で気持ちが篭ってる映画だなと思いました。
何も考えず見てた分、そういう意味では非常に心温まるラストでした。
取り壊しが無くなるみたいな、そういう夢物語ではなく。
現実は現実として、しっかり問題を提起し。
また、アホなとこは思いっきりアホで。
そういうメリハリがしっかりついてた分、余計に油断しました。
あんなんで、著作権殺られないわけないし(笑
非常に面白かったです。
春休みの学生さんあたりが、昼すぎに頭真っ白にして見るのには最適じゃないかな(笑
社会人は、気分転換にどうぞ。花見が始まる前に、そうサクラが咲く前に(笑)
さて、「おくりびと」も見ました。
THE 日本映画ですね。綺麗な景色でした。
山田辰夫が好き。
出てくるだけで、もうドキドキしてしまう。
あとは、峰岸徹。
昨年10月に亡くなられた峰岸徹。
最後にシーンではぶったまげました。
まったく前評判も含め、シャットアウトしてた映画だったので、峰岸徹が出演してただけで。
本当になぜか、感慨深く。
改めて、哀悼の意を捧げる気分でした。
映画の無い内容ですが。
深く深くは突き刺さず。突き立てず。
非常に、上澄みが澄み切った印象でした。
もっともっと時間があれば、葛藤もひらめきも違った角度からも描けただろうし、
更に深かったんじゃないかと思います。
個人的には、さほどという感じです。
色んなエピソードを詰め込まざるを得ない分、時間の経過がどうしてもラフな感じに
なってしまう印象もあったし、続編も十分にイケると思ったりもしました。
ただ、納棺師という職業にスポットを当てたことと。
誰もが、あのように最期を迎えられないであろう、少しの矛盾。
しかしながら、あのように送られる幸せ。
何か違った現実的な気持ちになりました。
もう1本は「容疑者Xの献身」
絶対原作の方が面白いんだろうなと。
そう思わせる内容と。
福山必要か?!と思ってしまう感じの削り方(笑
つまりは、この映画に¥1800を投じることは出来ない。
物語の内容は原作に遠く及ばない感じがしてしまうが、
2時間ドラマな感覚で見れば、実に面白い。
テレビ局が製作すると得てして、丁寧なカメラワークで丁寧な描写をする分、
映画としては、妙に不自然な感じを受ける。
これがドラマ的な印象を強くしてしまうような気持ち。
映画のようなスリリングさは無い。
でも、時々に散ってるパズルを1つ1つ丁寧に組み上げてるような感じがとてもあった。
本では得られない確かな感触。
ただ、映画館で見て面白いとは唸れない。
珍しく話題の映画を見たけど。
確かに「おくりびと」にしても、「容疑者Xの献身」にしても、何も期待していない分、
得るものもさほど無いし、失うものはほとんど無い。
フィルムは滅茶苦茶に期待して、その期待に尺度にどれだけ近づき。
どれだけ上回るか。
こういう偏屈な鑑賞方法のため。
見るときには、DVD3~4本続けてみてしまうようになってしまいました。
ボクにとっては映画は娯楽ではなく、戦いであります。
気軽なものでは無いような気がしてます。
故に、あんま映画見ません(笑
あらすじはコチラ。
知った頃には終わりそうで、予定がつかず。
今か!今かと待ちわびて。
見ました。
「僕らのミライへ逆回転」
結果から言うと、面白い。
娯楽です。滅茶苦茶 THE USA!な感じの。
ただ、色んなとこに色んな伏線を引いておいて。
最後は綺麗に繋がる感じと。
やっぱりジャックブラックが出てくると、素直に面白い感じは、変わらずにステキです。
人気ねぇーだろうと思ってたら、我が町のTSUTAYAでは猛烈な量がありました。
リメイクと言っても、ボクあんま映画しっかり見ないので、
知らない映画も。
と言っても、ロボコップやらの無茶苦茶感を感じれば、それがどのシーンだとかは
さほど重要じゃなく。
いかにその映画をリメイクでもなくパロディでもなく。
本当に小学生の学芸会レベルで、やってる訳で。
ボクにもこんな青春と友達が欲しかったと笑える感じです。
確かにあんなビデオがあったら、レンタルしたい気持ちになります。
バカだもんなぁ。
ただ、想像以上にラストは綺麗で。
タイトルや内容に反して、非常に丁寧で気持ちが篭ってる映画だなと思いました。
何も考えず見てた分、そういう意味では非常に心温まるラストでした。
取り壊しが無くなるみたいな、そういう夢物語ではなく。
現実は現実として、しっかり問題を提起し。
また、アホなとこは思いっきりアホで。
そういうメリハリがしっかりついてた分、余計に油断しました。
あんなんで、著作権殺られないわけないし(笑
非常に面白かったです。
春休みの学生さんあたりが、昼すぎに頭真っ白にして見るのには最適じゃないかな(笑
社会人は、気分転換にどうぞ。花見が始まる前に、そうサクラが咲く前に(笑)
さて、「おくりびと」も見ました。
THE 日本映画ですね。綺麗な景色でした。
山田辰夫が好き。
出てくるだけで、もうドキドキしてしまう。
あとは、峰岸徹。
昨年10月に亡くなられた峰岸徹。
最後にシーンではぶったまげました。
まったく前評判も含め、シャットアウトしてた映画だったので、峰岸徹が出演してただけで。
本当になぜか、感慨深く。
改めて、哀悼の意を捧げる気分でした。
映画の無い内容ですが。
深く深くは突き刺さず。突き立てず。
非常に、上澄みが澄み切った印象でした。
もっともっと時間があれば、葛藤もひらめきも違った角度からも描けただろうし、
更に深かったんじゃないかと思います。
個人的には、さほどという感じです。
色んなエピソードを詰め込まざるを得ない分、時間の経過がどうしてもラフな感じに
なってしまう印象もあったし、続編も十分にイケると思ったりもしました。
ただ、納棺師という職業にスポットを当てたことと。
誰もが、あのように最期を迎えられないであろう、少しの矛盾。
しかしながら、あのように送られる幸せ。
何か違った現実的な気持ちになりました。
もう1本は「容疑者Xの献身」
絶対原作の方が面白いんだろうなと。
そう思わせる内容と。
福山必要か?!と思ってしまう感じの削り方(笑
つまりは、この映画に¥1800を投じることは出来ない。
物語の内容は原作に遠く及ばない感じがしてしまうが、
2時間ドラマな感覚で見れば、実に面白い。
テレビ局が製作すると得てして、丁寧なカメラワークで丁寧な描写をする分、
映画としては、妙に不自然な感じを受ける。
これがドラマ的な印象を強くしてしまうような気持ち。
映画のようなスリリングさは無い。
でも、時々に散ってるパズルを1つ1つ丁寧に組み上げてるような感じがとてもあった。
本では得られない確かな感触。
ただ、映画館で見て面白いとは唸れない。
珍しく話題の映画を見たけど。
確かに「おくりびと」にしても、「容疑者Xの献身」にしても、何も期待していない分、
得るものもさほど無いし、失うものはほとんど無い。
フィルムは滅茶苦茶に期待して、その期待に尺度にどれだけ近づき。
どれだけ上回るか。
こういう偏屈な鑑賞方法のため。
見るときには、DVD3~4本続けてみてしまうようになってしまいました。
ボクにとっては映画は娯楽ではなく、戦いであります。
気軽なものでは無いような気がしてます。
故に、あんま映画見ません(笑
「ぐるりのこと。」 橋口亮輔監督 [君にMOVIEを!]
何より、この映画の執着で感服するのは、時間の経過。
2時間20分近くの映画の中で、「空白の10年」を埋める。
この空白の10年と言う言葉を知ったのは、オバマ大統領の発言で。
バブル崩壊後、日本の10年を示す。
原爆の空白の10年は周知だったが、これは素直にビックリしたもので。
自分のド真ん中青春が「空白の10年」って(笑)
この空白の10年が、背景。
そこに流れる事件や災害。
しかしこの物語で大切だと思うのは。
「鬱」に対峙したときの、長くの時間。
半年で再び自分と向き合う人もいれば、そうではない人もいる。
その背景の中で、時間のかかった症例。
中途半端で描かず、その過程の混迷を断片的に残しながら物語が進む。
進行してる実感はある。
ボク自身は「うつ」とは無縁だが、ボクの友達には、この病を長く患った友達がいる。
彼女が最も苦しかった時代ではなく、外に出るためのリハビリの過程で、彼女と出逢った。
このあいだの沖縄旅行では彼女も一緒に行ったぐらい。
彼女の周りで、昔彼女が極度のうつ病を患ったことなど、知らない人の方が多いだろう。
その時に感じたことを思い出した。
彼女は、ボクやかみさんと酒を吞んだ。
飲み続けたというニュアンスで間違いないだろう。
「求められている実感があった」と笑ったことがある。
鬱の波で外に出れないときには、携帯の電源を切ってしまう。
現代、携帯の電源1つで社会と完全に遮断されてしまう条理を感じたもので。
決まって、実家に電話して彼女の母が電話に出る。
いいから出してくれ、そして受話器のムコウの彼女に
「さっさと来い」
こう言ったのは、1度や2度ではない。
少しやつれた彼女は、近所の我が家に飲みに来て。
千鳥足で酔っ払って帰った。
誰かの存在、それも少々厚かましいぐらいのものでなければ、
人は誰かに求められてる実感をしないものだと思ったりもする。
愛されてるとか、愛してるとか正直よくわからないのに、
でも誰かに求められたいと思うのは大いなる矛盾。
それでも生きるし、誰かを好きになるし、笑っていたいと思う。

今回、この映画で主演の木村多江は、日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞した。
商業映画、ドラマの二番煎じ。
テレビ局のバックアップで成り立つような映画ばかりの中で。
映画は作れて、こんなに素晴らしいフィルムは存在するし、そこで悠然と泳ぐ俳優たちもいる。
鬼気迫る。
メイキングも見たが、凄まじいものだった。
フィルムに中でしか呼吸出来ない俳優をしばしば見るが。
昭和の名優に近い、見ているコッチが息苦しくなるぐらいの表情をする。
木村多江はそんな女優だった。
少ない映画の時間の中でありながら、見えない描かれない時間の経過の
輪郭が十分に感じる演技だったと思う。
安易な映画はセットをふんだんに変えたり、白髪を増やしたり。
視覚的な部分で、時間をまわす。
でも、俳優の演技で回る時間は、映画としての時間を忘れてしまう魔法であり、
違う人格を演じる、底力だと思った。
時間の経過と快方を感じる為にカレンダーというのも、仕掛け。
西暦で見せるんじゃない。カレンダーの書き込みの景色。
見過ごす部分無く、落ちる感じは自らを追い込むギリギリの感じ。
不安定を演じる。もはや自身もギリギリの不安定。
極論、演じると以前に当事者になってしまったら、もはや役もへったくれもない。
完全に「佐藤翔子」だった。
リリー・フランキー演じるカナオは、緊張感の無い感じがこの映画のたわみだと。
橋口監督が、「この人しかいない」というニュアンスがわかる。
この映画の細かい描写は、わかる人にはわかる、そんな優しさが覗く。
詳しくは書かない。
でも、カナオの優しさの細かい部分は、とっても温かい。
ポットも金閣寺もよくわかる。
鼻を舐めるのも、喧嘩の空気を崩すのも。
「愛する」という意味の本質的な部分を橋口監督は理解しているのだと思う。
だからわからないボクでさえ、なんとなく輪郭を感じれたものであります。

先日、「子供について」という話を地元の先輩としたが、ニュアンスはよくわからなかった。
子供を見て、子供を愛しいと思う。
そして妻を見ると、この子供がいるのはこの妻があってと実感すると。
妻が愛しくなるというのだ。
子供というファインダーを通さないと、妻にたどり着けない実感がよくわからない。
ボクは夫であるが、子供というものが存在しなくても、
現時点で、今を一緒に生きることを契約したような実感が結婚であった。
でもそこには、契約破棄も破産もある。
子供がいなくても、2人で笑って生きていたり。
何年に1度。
支えてもらってるという実感を得られえれば、それで生きていける。
証が無くても。
ただ互いに顔を合わせて、少し労い。少し手を繋ぎ。テーブルで食事をして、SEXもして。
そういう日々の生活の中で実感しにくいものを、無理に実感する必要はない。
決める必要もない。
ボクはカナオほど優しくはない。
妻も翔子ほど、物事を決めない。
ただ、ボクはこの映画を見てとても熱くなるものがあったし、
妻も随分前に映画館に行って見たときに同じような話をしてた。
夫婦と言う証明は、紙切れだけのものであり。
互いが個であり、同体ではない。
ボクは運命共同体という意識は希薄。
しかしながら知らず知らず、支えあう部分が多分に出てくる。
一番話したい相手で、一番話したくない相手でもある。

トマトを頬張るシーン。
「水やってくれてたんだ。」
この言葉が凄く良かった。
深く暗いトンネルの中、差し込む光が無ければ、
そこが地上からどれくらいの場所なのかもわからない。
左右なのか上下なのか、まったくわからない。
差し込む光は、真っ直ぐ差し込む。
屈折しない。
だから、目指せば地上まで最短距離で歩ける。
意識しなくても、光になってるときもある。
意識して差し込む光もある。
大切なのは、そういう光になれるかどうか。
深く難しい問題。
でもその1つの方法がこの映画の中にあって。
見回す暗い景色の中で、光の存在に気付くことが出来る人は幸せだと。
そう思う。
あとは真っ直ぐ進めばいい。
そしていつか何かの時に、その人の光になればいい。
誰かの光。そして、そこからまた光。
反射を繰り返して、世界がやさしくなればいい。
ぐるり見れる人間へ。
2時間20分近くの映画の中で、「空白の10年」を埋める。
この空白の10年と言う言葉を知ったのは、オバマ大統領の発言で。
バブル崩壊後、日本の10年を示す。
原爆の空白の10年は周知だったが、これは素直にビックリしたもので。
自分のド真ん中青春が「空白の10年」って(笑)
この空白の10年が、背景。
そこに流れる事件や災害。
しかしこの物語で大切だと思うのは。
「鬱」に対峙したときの、長くの時間。
半年で再び自分と向き合う人もいれば、そうではない人もいる。
その背景の中で、時間のかかった症例。
中途半端で描かず、その過程の混迷を断片的に残しながら物語が進む。
進行してる実感はある。
ボク自身は「うつ」とは無縁だが、ボクの友達には、この病を長く患った友達がいる。
彼女が最も苦しかった時代ではなく、外に出るためのリハビリの過程で、彼女と出逢った。
このあいだの沖縄旅行では彼女も一緒に行ったぐらい。
彼女の周りで、昔彼女が極度のうつ病を患ったことなど、知らない人の方が多いだろう。
その時に感じたことを思い出した。
彼女は、ボクやかみさんと酒を吞んだ。
飲み続けたというニュアンスで間違いないだろう。
「求められている実感があった」と笑ったことがある。
鬱の波で外に出れないときには、携帯の電源を切ってしまう。
現代、携帯の電源1つで社会と完全に遮断されてしまう条理を感じたもので。
決まって、実家に電話して彼女の母が電話に出る。
いいから出してくれ、そして受話器のムコウの彼女に
「さっさと来い」
こう言ったのは、1度や2度ではない。
少しやつれた彼女は、近所の我が家に飲みに来て。
千鳥足で酔っ払って帰った。
誰かの存在、それも少々厚かましいぐらいのものでなければ、
人は誰かに求められてる実感をしないものだと思ったりもする。
愛されてるとか、愛してるとか正直よくわからないのに、
でも誰かに求められたいと思うのは大いなる矛盾。
それでも生きるし、誰かを好きになるし、笑っていたいと思う。

今回、この映画で主演の木村多江は、日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞した。
商業映画、ドラマの二番煎じ。
テレビ局のバックアップで成り立つような映画ばかりの中で。
映画は作れて、こんなに素晴らしいフィルムは存在するし、そこで悠然と泳ぐ俳優たちもいる。
鬼気迫る。
メイキングも見たが、凄まじいものだった。
フィルムに中でしか呼吸出来ない俳優をしばしば見るが。
昭和の名優に近い、見ているコッチが息苦しくなるぐらいの表情をする。
木村多江はそんな女優だった。
少ない映画の時間の中でありながら、見えない描かれない時間の経過の
輪郭が十分に感じる演技だったと思う。
安易な映画はセットをふんだんに変えたり、白髪を増やしたり。
視覚的な部分で、時間をまわす。
でも、俳優の演技で回る時間は、映画としての時間を忘れてしまう魔法であり、
違う人格を演じる、底力だと思った。
時間の経過と快方を感じる為にカレンダーというのも、仕掛け。
西暦で見せるんじゃない。カレンダーの書き込みの景色。
見過ごす部分無く、落ちる感じは自らを追い込むギリギリの感じ。
不安定を演じる。もはや自身もギリギリの不安定。
極論、演じると以前に当事者になってしまったら、もはや役もへったくれもない。
完全に「佐藤翔子」だった。
リリー・フランキー演じるカナオは、緊張感の無い感じがこの映画のたわみだと。
橋口監督が、「この人しかいない」というニュアンスがわかる。
この映画の細かい描写は、わかる人にはわかる、そんな優しさが覗く。
詳しくは書かない。
でも、カナオの優しさの細かい部分は、とっても温かい。
ポットも金閣寺もよくわかる。
鼻を舐めるのも、喧嘩の空気を崩すのも。
「愛する」という意味の本質的な部分を橋口監督は理解しているのだと思う。
だからわからないボクでさえ、なんとなく輪郭を感じれたものであります。

先日、「子供について」という話を地元の先輩としたが、ニュアンスはよくわからなかった。
子供を見て、子供を愛しいと思う。
そして妻を見ると、この子供がいるのはこの妻があってと実感すると。
妻が愛しくなるというのだ。
子供というファインダーを通さないと、妻にたどり着けない実感がよくわからない。
ボクは夫であるが、子供というものが存在しなくても、
現時点で、今を一緒に生きることを契約したような実感が結婚であった。
でもそこには、契約破棄も破産もある。
子供がいなくても、2人で笑って生きていたり。
何年に1度。
支えてもらってるという実感を得られえれば、それで生きていける。
証が無くても。
ただ互いに顔を合わせて、少し労い。少し手を繋ぎ。テーブルで食事をして、SEXもして。
そういう日々の生活の中で実感しにくいものを、無理に実感する必要はない。
決める必要もない。
ボクはカナオほど優しくはない。
妻も翔子ほど、物事を決めない。
ただ、ボクはこの映画を見てとても熱くなるものがあったし、
妻も随分前に映画館に行って見たときに同じような話をしてた。
夫婦と言う証明は、紙切れだけのものであり。
互いが個であり、同体ではない。
ボクは運命共同体という意識は希薄。
しかしながら知らず知らず、支えあう部分が多分に出てくる。
一番話したい相手で、一番話したくない相手でもある。

トマトを頬張るシーン。
「水やってくれてたんだ。」
この言葉が凄く良かった。
深く暗いトンネルの中、差し込む光が無ければ、
そこが地上からどれくらいの場所なのかもわからない。
左右なのか上下なのか、まったくわからない。
差し込む光は、真っ直ぐ差し込む。
屈折しない。
だから、目指せば地上まで最短距離で歩ける。
意識しなくても、光になってるときもある。
意識して差し込む光もある。
大切なのは、そういう光になれるかどうか。
深く難しい問題。
でもその1つの方法がこの映画の中にあって。
見回す暗い景色の中で、光の存在に気付くことが出来る人は幸せだと。
そう思う。
あとは真っ直ぐ進めばいい。
そしていつか何かの時に、その人の光になればいい。
誰かの光。そして、そこからまた光。
反射を繰り返して、世界がやさしくなればいい。
ぐるり見れる人間へ。
グーグーだって猫である 【監督:犬童一心】 [君にMOVIEを!]
大島弓子を知らない。
正直、(特に姉・妹を持たない)一般的男子の常識であると思う。
未だにわからない。

という訳で昨日は「グーグーだって猫である」を見た。
感想的には、
・小泉今日子が美人だ。
・グーグーが登場するシーンで、上野樹里のトップスがかみさんのと同じだ。
という2点である。
原作を読んでないので、なんともいえないが中途半端な切り貼りが余計に、
物語を薄くしてる気がした。
唯一は、サバと小泉今日子のシーン。
引いては、ガンだとわかってからの展開であります。
「サバ」というかつての肉親にも近しい存在から。
感情が移りきらないグーグーへの描写も丁寧ではあるが、
それ故に「別にグーグー出す必要あんのか?」ってなる。
サバとの回顧が物語の主要なら。
サバとの生活~別れ、そしと自分への葛藤などの描写でいいのであるが。
軸を持たなければ、シッチャカメッチャカに成るゆえ、
グーグーという軸を持って、全ての話を回転している印象でした。
キャストも、グーグーが軸で物語が回転していく。
ただ、そう考えないと辻褄が合わないものが多いのではないか?とも感じる。
麻子ではなく、グーグーを軸にすることで、麻子もまた回るわけですし。
グーグーがいないと繋がらないということも多い。
先にも書いたが、ガンを発症してからの展開は、実に面白かった。
夢ではあるが、実は死線なのかな?と思ったり。
マーティーの噛ませ方が意外で絶妙だったり。
サバという猫を愛しく思う感じがわかる。
全ての猫を愛する人々は。
人よりも早く人生、いや猫生を生きる家族に対して、声を聞いてみたいと思うことは
純粋な気持ちなのではないか?と感じる。
言葉を発しない生き物だからこそ、近くに想うことが出来たり。
互いに支えになってるようにも感じた。
この感覚は、ボクのように猫と生活していない人間にはわかりにくいとこではあるが、
不幸な中にも猫という家族を亡くし、辛い想いをしていた人を何人か知ってることで、
妙な感情理解が出来たのは確かなことだと想う。
故に、「グーグー」の存在は、軸でしかねぇーな。と感じてしまうのであります。
猫だから、可愛いと許されるでありますが(苦笑)
サバを軸にすると、生きてるうちに会話できることになり。
そういう意味では、なんだか奥深さが薄くなってしまう感じもあるし。
しかしながら!
ここまで考え込んでみる映画ではない(笑
ダッラーと見れば、ダッラーと終わる映画であると思う。
正直、小泉今日子勝ちもある(笑)
ここまで深く考えたのも、こうやってパソコンに向かうからであって。
あのシーンは・・・・これは・・・と思い出すから、溢れる感想である。
振り替えらなかったら「さほど・・・」と言う印象は否定しない。
昨今の日本映画の個人的見解は、
ドラマの二番煎じか。
巨額を投じても大したことなく、制作してる周辺だけが大盛り上がりしてるような映画か。
雰囲気を大切にしてばっかりで中身が見えない、見えにくい映画が多い。
後者の映画は、基本的に主演俳優・女優の素晴らしさだけが際立ち。作品としての衝撃は薄い。
残る感想は「主演の***が良かったよね」的。

記事にはしなかった出来なかったが、ダークナイトのヒースレジャーについても
同じことを思う。
個人的には、バットマンの中でも残念な作品であるが、ヒースレジャー勝ちである。
バットマンというタイトルなら売れたのか?と苦笑いなとこである。
個人的にこの映画は残念だったので、文章にはしなかった。

「デトロイトメタルシティ」も見たが、おやつ的であり、間食な感じであります。
事実、友達と酒を吞みながらみたんだが(笑)
真面目に見るのもバカらしいし、原作のシーンを上手く、そして綺麗に貼ったなー!という
印象はありますが、絶賛するほどコメディではないし、絶賛するほどの映画でもない。
松雪泰子じゃなくてもいんじゃね?と思うのは、ボクだけじゃないはず。
この映画を見ての再発見は、
カジヒデキは、そう言った意味では、天才だったんだなって今更感じます。
さて、グーグーに戻りますが、個人的には森三中がいいっす。
あーいう人絶対いるもん的な親近感がとても、コメディです。
いずれにせよ、小泉今日子の美人に圧倒されるでしょう。
この映画での賞はとても頷けます。
非常に、入り込んだ役だと思います。
原作を読んでないから、
どこまで浅いのか。
どこを端折ってるのか。
んで、どこが描ききれてないのか。
もしかしたら、原作で躓いてるのか。
ボクみたいな輩が判断するには、非常に難しいとこではありますが。
年をとるにつれ、映画に楽しみが希薄になってる気がします。
バカなら徹底的にバカ。
つまらないなら徹底的につまらない。
泣かすのなら、これでもか?!ぐらい泣かす。
この俳優が出てれば見るという風な見方ではなくなった分、
本当に自分の価値観がモロに出るので、なかなかステキな映画には出会えなくて、
寂しい部分もあります。
夢中になってしまう感じが欲しい。
例えば、年末にレンタルして見続けた仁義無き戦いのような(笑)
映画やDVD地味に見るようにしてるんですが、文章にしておきたい!と思うような作品以外は
生活の中での1ページとして括り、BLOGではスルーしてます(笑
正直、(特に姉・妹を持たない)一般的男子の常識であると思う。
未だにわからない。

という訳で昨日は「グーグーだって猫である」を見た。
感想的には、
・小泉今日子が美人だ。
・グーグーが登場するシーンで、上野樹里のトップスがかみさんのと同じだ。
という2点である。
原作を読んでないので、なんともいえないが中途半端な切り貼りが余計に、
物語を薄くしてる気がした。
唯一は、サバと小泉今日子のシーン。
引いては、ガンだとわかってからの展開であります。
「サバ」というかつての肉親にも近しい存在から。
感情が移りきらないグーグーへの描写も丁寧ではあるが、
それ故に「別にグーグー出す必要あんのか?」ってなる。
サバとの回顧が物語の主要なら。
サバとの生活~別れ、そしと自分への葛藤などの描写でいいのであるが。
軸を持たなければ、シッチャカメッチャカに成るゆえ、
グーグーという軸を持って、全ての話を回転している印象でした。
キャストも、グーグーが軸で物語が回転していく。
ただ、そう考えないと辻褄が合わないものが多いのではないか?とも感じる。
麻子ではなく、グーグーを軸にすることで、麻子もまた回るわけですし。
グーグーがいないと繋がらないということも多い。
先にも書いたが、ガンを発症してからの展開は、実に面白かった。
夢ではあるが、実は死線なのかな?と思ったり。
マーティーの噛ませ方が意外で絶妙だったり。
サバという猫を愛しく思う感じがわかる。
全ての猫を愛する人々は。
人よりも早く人生、いや猫生を生きる家族に対して、声を聞いてみたいと思うことは
純粋な気持ちなのではないか?と感じる。
言葉を発しない生き物だからこそ、近くに想うことが出来たり。
互いに支えになってるようにも感じた。
この感覚は、ボクのように猫と生活していない人間にはわかりにくいとこではあるが、
不幸な中にも猫という家族を亡くし、辛い想いをしていた人を何人か知ってることで、
妙な感情理解が出来たのは確かなことだと想う。
故に、「グーグー」の存在は、軸でしかねぇーな。と感じてしまうのであります。
猫だから、可愛いと許されるでありますが(苦笑)
サバを軸にすると、生きてるうちに会話できることになり。
そういう意味では、なんだか奥深さが薄くなってしまう感じもあるし。
しかしながら!
ここまで考え込んでみる映画ではない(笑
ダッラーと見れば、ダッラーと終わる映画であると思う。
正直、小泉今日子勝ちもある(笑)
ここまで深く考えたのも、こうやってパソコンに向かうからであって。
あのシーンは・・・・これは・・・と思い出すから、溢れる感想である。
振り替えらなかったら「さほど・・・」と言う印象は否定しない。
昨今の日本映画の個人的見解は、
ドラマの二番煎じか。
巨額を投じても大したことなく、制作してる周辺だけが大盛り上がりしてるような映画か。
雰囲気を大切にしてばっかりで中身が見えない、見えにくい映画が多い。
後者の映画は、基本的に主演俳優・女優の素晴らしさだけが際立ち。作品としての衝撃は薄い。
残る感想は「主演の***が良かったよね」的。

記事にはしなかった出来なかったが、ダークナイトのヒースレジャーについても
同じことを思う。
個人的には、バットマンの中でも残念な作品であるが、ヒースレジャー勝ちである。
バットマンというタイトルなら売れたのか?と苦笑いなとこである。
個人的にこの映画は残念だったので、文章にはしなかった。

「デトロイトメタルシティ」も見たが、おやつ的であり、間食な感じであります。
事実、友達と酒を吞みながらみたんだが(笑)
真面目に見るのもバカらしいし、原作のシーンを上手く、そして綺麗に貼ったなー!という
印象はありますが、絶賛するほどコメディではないし、絶賛するほどの映画でもない。
松雪泰子じゃなくてもいんじゃね?と思うのは、ボクだけじゃないはず。
この映画を見ての再発見は、
カジヒデキは、そう言った意味では、天才だったんだなって今更感じます。
さて、グーグーに戻りますが、個人的には森三中がいいっす。
あーいう人絶対いるもん的な親近感がとても、コメディです。
いずれにせよ、小泉今日子の美人に圧倒されるでしょう。
この映画での賞はとても頷けます。
非常に、入り込んだ役だと思います。
原作を読んでないから、
どこまで浅いのか。
どこを端折ってるのか。
んで、どこが描ききれてないのか。
もしかしたら、原作で躓いてるのか。
ボクみたいな輩が判断するには、非常に難しいとこではありますが。
年をとるにつれ、映画に楽しみが希薄になってる気がします。
バカなら徹底的にバカ。
つまらないなら徹底的につまらない。
泣かすのなら、これでもか?!ぐらい泣かす。
この俳優が出てれば見るという風な見方ではなくなった分、
本当に自分の価値観がモロに出るので、なかなかステキな映画には出会えなくて、
寂しい部分もあります。
夢中になってしまう感じが欲しい。
例えば、年末にレンタルして見続けた仁義無き戦いのような(笑)
映画やDVD地味に見るようにしてるんですが、文章にしておきたい!と思うような作品以外は
生活の中での1ページとして括り、BLOGではスルーしてます(笑
あさま山荘への道程 【監督:若松孝二】 [君にMOVIEを!]
どう考えていくかという命題がありますが。
ボクの言葉と、ボクの感覚で。
その全てが、ここに載せることが出来たら。
1通の手紙のような想いで、感想文。
1978年生まれのボクに「連合赤軍」と言っても、「あさま山荘」程度の知識しかない。
大学受験の為に蓄えた、猛烈な日本史の知識はあるが。
この昭和元禄は、試験には出ず。
現代の話など、公民レベルでないと設問にならないのかもしれません。
「連合赤軍」という仰々しい言葉のせいで。
色んな意味が煩雑に絡まるかもしれないが。
若松孝二監督を知ったのは、スタジオボイス。
赤塚不二夫氏との会談。
当時のボクはとても赤塚作品を崇拝していて。
赤塚不二夫氏の著書から漫画など、多くを読んだ。

対談などは、更にその人間性を深く潜る深層的なもので。
興味深かった上に、何より話がコントの様で面白かった。
それが若松監督を知れたキッカケであります。
幾らかの時間の経過のあと。
この映画の存在を知るわけです。
この映画だけは、観なくちゃいけないと思えるのは。
思い入れからでもあり、対談の折、赤軍の足立正生氏の話があったこと。
あさま山荘を描く時には。
目を背けたくなるようなベースでのリンチシーンも含め、
「鉄球」イメージになってしまうあさま山荘への道程また過程、史実を踏まえてまとめる必然。
エンターティメント気質たるハリウッド大作に模したものよりも。
なぜあそこまで行き着くのかその果てと過程こそが大切だと思うのです。
なぜ、あそこまで考え、その生き方を実行できたのか?
それはカルトやら狂教のごとく、信奉信心を担う「肝」であり。
その狂気こそ、現代私たちが何か感じ得なくてはならないことだと感じたり。
映画を見る前に。
ボクは勝手なイメージをしました。
「革命」という大義名分の実行のための研鑽。
また思想の拮抗。
そして、あさま山荘での行く末。
ただ、そんなものは何も存在せず。
あったのは「個」
何かを信じることは良いことだと思うのです。
しかしながら、その信じたことや思想を誰かに布教したり、強要したり。
また、その信じるものへの意識を高めるための業だったり。
それは個人の中で処理し、蓄積すればいい話で。
それを誰かと共有したり、共感して欲しいと願ったならば。
必ず軋轢が生じます。
誰かに評価されたり、評価したりということ自体が、
実は、既に歪んでいると思うのです。
迷いであったり葛藤であったり。
自分が強くある人間は、他人に依存しない。
と言いたい所ですが、基本的には1人では生きていけない現実もまた然りで。
本当に何者にも依存しない。
そういうことが出来る人間は孤独や閉鎖、閉塞的なものが恒常で。
現代の生活や社会にあるならば、それはとても困難なことだと思うのです。
生産性が無ければ、基本食べることが出来ないわけですから。
評価を気にしたりすることで、自分を曲げ。
自分を曲げることで、評価を得る。
実のところ。
「革命」とは個人でしか成しえないことだと思うわけです。
音楽、絵画、など芸術と呼ばれるものの多くは、実は革命だと思ったりもするのです。
そこに宿るのは、個人の「魂や思想」の昇華で。
創り上げる時に、何を目指し何を達するのかという仰々命題ではなくても、
それらを高め形にし、己の意のままに作品を完成させた上での高い評価は、
誰にも媚びず誰にも曲げられず。
民衆を納得させることが出来るのは、1つ「革命」だと思うのです。
評価の良し悪しが革命イコールにならず、自己消化出来るだけでも、充分革命だとは思います。
最低でも、自分という人間を満足させてるわけですし、納得も賞賛も自分に与えてるのですから。
壊れるまで、その革命は続き。
形消えても、伝説として生きる。
先導し、煽動したことで巻き起こる「革命」は、その時代やその背景によって大きく異なり。
それは「革命」の域を超えた、転覆であったり土台ごと変える抜本的なものだったりする気がします。

映画の中での頻繁な言葉。
「総括」という、自分の行動規範や反省、それを踏まえての目標。
そんな設定を、日々出来る人間がいるわけもなく。
それを瞬時に答えることが出来たとしても。
それを評価してもらう、また評価される必要も意味もないわけで。
それを中心に起こるこの映画の中盤の「総括」=リンチのシーンは、
もはや、後半になるとコントのような滑稽さすら見え隠れするぐらい。
そこに起こる全ては理解不明なものと感じるのです。
実際に、意味がわからなくなってしまい混迷したことは、
当人たちの自供などで明らかになってる訳だし。
麻痺した感覚以上に、その闘争的革命無き革命思想の暴走こそ。
実感の無さではないかと。
映画の後半、「やっと本当の敵と戦ってる」という言葉は如実だと思うのです。
国家権力粉砕を目論むことは無いものの。
社会の不条理に言葉を上げることへの意識の薄さは。
今、現代でも猛烈に存在し、その現代における、憤りの無さというか、希薄さは。
対岸の火事的な国民性に存在しうる。
革命を説くことはない。
それが正しいとも思えない。
ただ革命を目指した人間であっても、葛藤や迷走は存在している。
思想から行動に移した人間でも、その道は真っ直ぐではなかった。
最後。
若松監督が、創り上げた「勇気がなかったんだよ」という言葉には。
強い美しさがあった。
あの時代のあの運動が、そして彼らの行動は、
罪として、受ける当然の罰が存在するが。
その時代が生んだ、国の強行もまた彼らを生み出す要因であり隙間を与えた。
武装という手段は、野蛮であり蛮行。
ただ、それと同じくらいの情報操作もまた蛮行であり。
事実自体をまげて、世論を操作することもまた暴力である。
しかしながら、大きなもの国家権力に立ち向かう前に。
目の前に起こった矛盾や疑問を払拭せずに暴走したこと。
それを制止せず黙認した上で革命を叫んだこと。
そこに何も生まれなかったこと。
あさま山荘という砂上の楼閣。
しかしながら、確かにあった事実。
そういう意味の中で、繰り広げられた物語。
その物語を事件だとして、済ませたくないと。
あの瞬間あの生き方しか出来なかった人間たちがいて。
それは何も過去のことではなく。
これからも起こりうる誘発性のある突発。
そこに浮かぶ感情であったり怒りがどこの矛先で、どのタイミングで表出するかはわからない。
ただ言えることは、何も隠さず。
向き合い。
その中で、良し悪しを細かく精査せず、それでいて。
言葉の端に本質を含ませるこのフィルムの実感は素晴らしい。
「連合赤軍」の映画としてみることも然り。
また自己投影しながら。
自分の生き方を問うのもまた趣があると思う。

どんな宗教を信じようが。
どんな境遇にういようが。
どんな仕打ちを受けようが。
どんな後悔があろうが。
決めてるのは、自分であり。
判断してるのもまた自分。
そこにある自分というものを、どこまで信じて裏切らないか。
そして、その自分をどこに向けるのか。
辛酸や苦しみの中から這出た己など、さほど意味がなく。
本当の己は、そのようなものに対峙する前から結果が出ていて。
埋もれることなく、己を見つめることが出来ると思う。
困難を困難と思わず、後悔を笑い。
また借りを作らず、貸しを問わず。
自然と回避したり裕に超える自分こそ。
何か、強い信念があるのじゃないかと考えてしまう。
革命を叫んだ戦いで。
「あさま山荘」では名誉の革命の死は無かった。
生きてこその革命。
命ある限りの革命。
どのような命題があったのか、ボクはまた本を読まなくちゃいけないと思う。
でも、思想の机上から表に出たときに。
賭せるようなものがあったら。
あさま山荘まで行き着かなかったと思う。
ボクの考えでは、まず連合赤軍にも入ってないのかもしれない。
誰もが何かの。
そう不意のタイミング、偶然。
あの時代の自然の流れで行き着いた場所が赤軍で。
そこが抜けることも逸脱することも許されないく空間となり。
その空間の混沌が闇に混じったこと。
シビアで冷酷で。
それが思想故だというならば。
信仰は自由だが、徒党を組むべきではないと思ったりもしたり。
紙一重の転落。
いずれにせよ、同志殺しといわれた彼らが、その同志殺しが消えかすんだのは、
テロルとしてのあさま山荘事件があったこと。
賞賛できる事件でもなければ、思想でもない。
ただ、オウム同様。
そこに踏み込んだのも自分の意思。
選択したことが大部分で。
そういうことを考えると、翻弄されたわけでもないし、流されたわけでもない。
終着の予期は出来ずとも、その結果には自分で自分の結論を飲まざるを得ない。
信じたものが間違ってると思ったら、それは自己否定になるし。
やり直しがおおよそ利くものだが、何度もやり直しをする自分の人生が果たして、
良いものなのか悪いものなのか、その評価もまた自分にしか出来ないのだから。
フィルムが流れる3時間以上の、時間の訪れが来る。
未だボクの中では映画が終わっていない。
=
この長文が正しい言葉で書けたか、自分でも不明瞭ではあります。
しかしながら、自分に問い考え、書いたわけですから。
これでいいのだと、そう吐きます。
ボクの言葉と、ボクの感覚で。
その全てが、ここに載せることが出来たら。
1通の手紙のような想いで、感想文。
1978年生まれのボクに「連合赤軍」と言っても、「あさま山荘」程度の知識しかない。
大学受験の為に蓄えた、猛烈な日本史の知識はあるが。
この昭和元禄は、試験には出ず。
現代の話など、公民レベルでないと設問にならないのかもしれません。
「連合赤軍」という仰々しい言葉のせいで。
色んな意味が煩雑に絡まるかもしれないが。
若松孝二監督を知ったのは、スタジオボイス。
赤塚不二夫氏との会談。
当時のボクはとても赤塚作品を崇拝していて。
赤塚不二夫氏の著書から漫画など、多くを読んだ。
対談などは、更にその人間性を深く潜る深層的なもので。
興味深かった上に、何より話がコントの様で面白かった。
それが若松監督を知れたキッカケであります。
幾らかの時間の経過のあと。
この映画の存在を知るわけです。
この映画だけは、観なくちゃいけないと思えるのは。
思い入れからでもあり、対談の折、赤軍の足立正生氏の話があったこと。
あさま山荘を描く時には。
目を背けたくなるようなベースでのリンチシーンも含め、
「鉄球」イメージになってしまうあさま山荘への道程また過程、史実を踏まえてまとめる必然。
エンターティメント気質たるハリウッド大作に模したものよりも。
なぜあそこまで行き着くのかその果てと過程こそが大切だと思うのです。
なぜ、あそこまで考え、その生き方を実行できたのか?
それはカルトやら狂教のごとく、信奉信心を担う「肝」であり。
その狂気こそ、現代私たちが何か感じ得なくてはならないことだと感じたり。
映画を見る前に。
ボクは勝手なイメージをしました。
「革命」という大義名分の実行のための研鑽。
また思想の拮抗。
そして、あさま山荘での行く末。
ただ、そんなものは何も存在せず。
あったのは「個」
何かを信じることは良いことだと思うのです。
しかしながら、その信じたことや思想を誰かに布教したり、強要したり。
また、その信じるものへの意識を高めるための業だったり。
それは個人の中で処理し、蓄積すればいい話で。
それを誰かと共有したり、共感して欲しいと願ったならば。
必ず軋轢が生じます。
誰かに評価されたり、評価したりということ自体が、
実は、既に歪んでいると思うのです。
迷いであったり葛藤であったり。
自分が強くある人間は、他人に依存しない。
と言いたい所ですが、基本的には1人では生きていけない現実もまた然りで。
本当に何者にも依存しない。
そういうことが出来る人間は孤独や閉鎖、閉塞的なものが恒常で。
現代の生活や社会にあるならば、それはとても困難なことだと思うのです。
生産性が無ければ、基本食べることが出来ないわけですから。
評価を気にしたりすることで、自分を曲げ。
自分を曲げることで、評価を得る。
実のところ。
「革命」とは個人でしか成しえないことだと思うわけです。
音楽、絵画、など芸術と呼ばれるものの多くは、実は革命だと思ったりもするのです。
そこに宿るのは、個人の「魂や思想」の昇華で。
創り上げる時に、何を目指し何を達するのかという仰々命題ではなくても、
それらを高め形にし、己の意のままに作品を完成させた上での高い評価は、
誰にも媚びず誰にも曲げられず。
民衆を納得させることが出来るのは、1つ「革命」だと思うのです。
評価の良し悪しが革命イコールにならず、自己消化出来るだけでも、充分革命だとは思います。
最低でも、自分という人間を満足させてるわけですし、納得も賞賛も自分に与えてるのですから。
壊れるまで、その革命は続き。
形消えても、伝説として生きる。
先導し、煽動したことで巻き起こる「革命」は、その時代やその背景によって大きく異なり。
それは「革命」の域を超えた、転覆であったり土台ごと変える抜本的なものだったりする気がします。
映画の中での頻繁な言葉。
「総括」という、自分の行動規範や反省、それを踏まえての目標。
そんな設定を、日々出来る人間がいるわけもなく。
それを瞬時に答えることが出来たとしても。
それを評価してもらう、また評価される必要も意味もないわけで。
それを中心に起こるこの映画の中盤の「総括」=リンチのシーンは、
もはや、後半になるとコントのような滑稽さすら見え隠れするぐらい。
そこに起こる全ては理解不明なものと感じるのです。
実際に、意味がわからなくなってしまい混迷したことは、
当人たちの自供などで明らかになってる訳だし。
麻痺した感覚以上に、その闘争的革命無き革命思想の暴走こそ。
実感の無さではないかと。
映画の後半、「やっと本当の敵と戦ってる」という言葉は如実だと思うのです。
国家権力粉砕を目論むことは無いものの。
社会の不条理に言葉を上げることへの意識の薄さは。
今、現代でも猛烈に存在し、その現代における、憤りの無さというか、希薄さは。
対岸の火事的な国民性に存在しうる。
革命を説くことはない。
それが正しいとも思えない。
ただ革命を目指した人間であっても、葛藤や迷走は存在している。
思想から行動に移した人間でも、その道は真っ直ぐではなかった。
最後。
若松監督が、創り上げた「勇気がなかったんだよ」という言葉には。
強い美しさがあった。
あの時代のあの運動が、そして彼らの行動は、
罪として、受ける当然の罰が存在するが。
その時代が生んだ、国の強行もまた彼らを生み出す要因であり隙間を与えた。
武装という手段は、野蛮であり蛮行。
ただ、それと同じくらいの情報操作もまた蛮行であり。
事実自体をまげて、世論を操作することもまた暴力である。
しかしながら、大きなもの国家権力に立ち向かう前に。
目の前に起こった矛盾や疑問を払拭せずに暴走したこと。
それを制止せず黙認した上で革命を叫んだこと。
そこに何も生まれなかったこと。
あさま山荘という砂上の楼閣。
しかしながら、確かにあった事実。
そういう意味の中で、繰り広げられた物語。
その物語を事件だとして、済ませたくないと。
あの瞬間あの生き方しか出来なかった人間たちがいて。
それは何も過去のことではなく。
これからも起こりうる誘発性のある突発。
そこに浮かぶ感情であったり怒りがどこの矛先で、どのタイミングで表出するかはわからない。
ただ言えることは、何も隠さず。
向き合い。
その中で、良し悪しを細かく精査せず、それでいて。
言葉の端に本質を含ませるこのフィルムの実感は素晴らしい。
「連合赤軍」の映画としてみることも然り。
また自己投影しながら。
自分の生き方を問うのもまた趣があると思う。
どんな宗教を信じようが。
どんな境遇にういようが。
どんな仕打ちを受けようが。
どんな後悔があろうが。
決めてるのは、自分であり。
判断してるのもまた自分。
そこにある自分というものを、どこまで信じて裏切らないか。
そして、その自分をどこに向けるのか。
辛酸や苦しみの中から這出た己など、さほど意味がなく。
本当の己は、そのようなものに対峙する前から結果が出ていて。
埋もれることなく、己を見つめることが出来ると思う。
困難を困難と思わず、後悔を笑い。
また借りを作らず、貸しを問わず。
自然と回避したり裕に超える自分こそ。
何か、強い信念があるのじゃないかと考えてしまう。
革命を叫んだ戦いで。
「あさま山荘」では名誉の革命の死は無かった。
生きてこその革命。
命ある限りの革命。
どのような命題があったのか、ボクはまた本を読まなくちゃいけないと思う。
でも、思想の机上から表に出たときに。
賭せるようなものがあったら。
あさま山荘まで行き着かなかったと思う。
ボクの考えでは、まず連合赤軍にも入ってないのかもしれない。
誰もが何かの。
そう不意のタイミング、偶然。
あの時代の自然の流れで行き着いた場所が赤軍で。
そこが抜けることも逸脱することも許されないく空間となり。
その空間の混沌が闇に混じったこと。
シビアで冷酷で。
それが思想故だというならば。
信仰は自由だが、徒党を組むべきではないと思ったりもしたり。
紙一重の転落。
いずれにせよ、同志殺しといわれた彼らが、その同志殺しが消えかすんだのは、
テロルとしてのあさま山荘事件があったこと。
賞賛できる事件でもなければ、思想でもない。
ただ、オウム同様。
そこに踏み込んだのも自分の意思。
選択したことが大部分で。
そういうことを考えると、翻弄されたわけでもないし、流されたわけでもない。
終着の予期は出来ずとも、その結果には自分で自分の結論を飲まざるを得ない。
信じたものが間違ってると思ったら、それは自己否定になるし。
やり直しがおおよそ利くものだが、何度もやり直しをする自分の人生が果たして、
良いものなのか悪いものなのか、その評価もまた自分にしか出来ないのだから。
フィルムが流れる3時間以上の、時間の訪れが来る。
未だボクの中では映画が終わっていない。
=
この長文が正しい言葉で書けたか、自分でも不明瞭ではあります。
しかしながら、自分に問い考え、書いたわけですから。
これでいいのだと、そう吐きます。
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [君にMOVIEを!]
何を感じて。
何を想うか。
真実の話だし、先に上映された救出ばかりを主眼においた、
中身の無いハリウッド映画のような浅間山荘の映画とは、正直話が違う。
36年前の今日の事実を。
公開真近。
若松孝二の名前を知ったのは最近の出来事。
でも、そんなことは関係ない。
あのときに何があって。
時代の流れがどうあったのかということ。
そういう史実を飲み込み。
今の自分の生き方や思想を透かしてみたいだけ。
狂ってるのか?
テロルなのか?
呑み込める感情の範囲なのか?
異物なのか?
本を読まずとも、その流れを充分に知る若松監督の作品ならば。
是非に鑑賞する価値はある。
1978年生。
なにも知らないボクだからこそ、この映画に何か感じ得ない衝動を期待して止まない。
それは、錬金の映画ではなく。
ただ突き進み、貫く映画だからこそ、感じえる共感にも近い。
透かして。通して。それでもきっと何かは残る。
何を想うか。
真実の話だし、先に上映された救出ばかりを主眼においた、
中身の無いハリウッド映画のような浅間山荘の映画とは、正直話が違う。
36年前の今日の事実を。
公開真近。
若松孝二の名前を知ったのは最近の出来事。
でも、そんなことは関係ない。
あのときに何があって。
時代の流れがどうあったのかということ。
そういう史実を飲み込み。
今の自分の生き方や思想を透かしてみたいだけ。
狂ってるのか?
テロルなのか?
呑み込める感情の範囲なのか?
異物なのか?
本を読まずとも、その流れを充分に知る若松監督の作品ならば。
是非に鑑賞する価値はある。
1978年生。
なにも知らないボクだからこそ、この映画に何か感じ得ない衝動を期待して止まない。
それは、錬金の映画ではなく。
ただ突き進み、貫く映画だからこそ、感じえる共感にも近い。
透かして。通して。それでもきっと何かは残る。
オダギリジョー結婚! [君にMOVIEを!]
素敵。
奥様が香椎由宇。
20歳ながらその演技には、正直オーラがある。
ドラマにいて欲しくない。
うん、凄く素敵です。
おめでとう。
オダギリジョー云々じゃない。
香椎由宇が結婚を経て良きSTEPとして、更に女優として高みに。
凄くいい写真のオンパレードで。
自分のBLOGに飾りたかっただけ(笑













